愛犬を亡くしたあと、 涙が止まらなくなったり、 何もする気になれなくなったり、 「もっと何かできたのではないか」と自分を責め続けてしまったり。

大切な存在との別れによって起こる、深い悲しみや喪失感は、 一般に「ペットロス」と呼ばれています。

けれど、ペットロスは決まった形で現れるものではありません。

毎日泣き続ける人もいれば、 いつもと変わらないように仕事を続ける人もいます。 しばらく経ってから、急に悲しみが押し寄せてくることもあります。

私も、愛犬umuを見送ったあと、 たくさんの悲しみと後悔を抱えました。

それでも今、私は笑い、動き、新しいものをつくっています。

悲しみが消えたからではありません。

umuが好きだった私でいたいと思うからです。

この記事では、ペットロスとはどのような状態を指すのか、 そして私自身がumuとの別れを経験して気づいたことを、 一人の飼い主としてお話しします。

ペットロスとは?

ペットロスとは、犬や猫など、 家族として暮らしてきた動物との別れによって生じる、 深い悲しみや喪失感のことです。

英語の「pet loss」をそのまま使った言葉ですが、 単にペットが亡くなったという出来事だけを指すものではありません。

大切な存在を失ったことによって起こる、 心や身体、日常生活の変化を含めて表現する言葉です。

犬と暮らす毎日は、 ごはんを用意すること、 散歩へ行くこと、 名前を呼ぶこと、 眠っている姿を眺めることなど、 たくさんの小さな習慣でできています。

その存在を失うということは、 愛する家族を失うだけではなく、 これまで当たり前だった生活のリズムや、 自分の役割まで失ったように感じることでもあります。

だからこそ、悲しみは心の中だけに収まらず、 身体や生活にも影響することがあります。

ペットロスで現れることのある心と身体の変化

ペットロスの感じ方や現れ方は、人によって異なります。

一般的には、次のような変化が起こることがあります。

  • 涙が止まらない
  • 何もやる気が起きない
  • 食欲がなくなる、または食べ過ぎてしまう
  • 夜眠れない、途中で目が覚める
  • 家の中が静かすぎると感じる
  • 姿や鳴き声が聞こえたように感じる
  • 集中できず、仕事や家事が手につかない
  • 「もっとできたのでは」と自分を責める
  • 周囲に悲しみを理解してもらえず、孤独を感じる
  • 楽しいことをすると、申し訳ない気持ちになる

こうした反応がすべて現れるわけではありません。

また、愛犬を見送った直後には気丈に動けていても、 数週間後や数か月後に、急に悲しみが強くなることもあります。

「自分はあまり泣いていないから、薄情なのではないか」

反対に、 「いつまでも泣いている自分は、おかしいのではないか」

そんなふうに、自分の悲しみ方を誰かと比べる必要はありません。

大切な存在との関係が一人ひとり違うように、 別れを受け止めるまでの時間も、それぞれ違います。

ペットロスの苦しさによって、眠れない、食べられない、日常生活を続けることが難しい状態が長く続く場合は、一人で抱え込まず、医療機関や専門家へ相談することも大切です。

深く悲しむことは、自然な反応です

愛犬を亡くしたあと、 「いつまで悲しんでいるの」 「元気を出して」 と言われることがあります。

励まそうとしてくれた言葉だと分かっていても、 苦しく感じることもあるでしょう。

犬と暮らしたことがない人には、 その喪失の大きさが伝わりにくいこともあります。

けれど、一緒に暮らしてきた犬は、 ただ家の中にいた動物ではありません。

朝起きたときに最初に顔を見る相手であり、 帰宅を待っていてくれた家族であり、 つらい日にもそばにいてくれた存在です。

言葉を交わさなくても、 視線や息づかい、足音だけで気持ちが伝わるような関係になることもあります。

その存在を失って深く悲しむことは、 決して大げさなことでも、弱いことでもありません。

それだけ大切に思い、日々を共にしてきたからこそ起こる、自然な反応です。

私は、umuと暮らしている頃から怖かった

私は、umuが元気に暮らしている頃から、 いつか訪れる別れを漠然と怖いと思っていました。

犬と人では、流れる時間の速さが違います。

頭では分かっていたつもりでした。

それでも、眠っているumuの顔を見ながら、 「この時間がずっと続けばいいのに」 と何度も思いました。

楽しい時間の中にいても、 ふと、いつか失う日を想像してしまう。

そんな自分に、 「まだ元気なのに、こんなことを考えるのはやめよう」 と言い聞かせることもありました。

でも今振り返れば、 あの不安も、umuを大切に思っていたからこその感情だったのだと思います。

愛するほど、 失うことが怖くなる。

まだ一緒にいるうちから別れを想像して苦しくなることも、 決して不自然なことではありません。

umuは、いつも歩くのが速かった

umuは、とにかく歩くのが速い子でした。

散歩へ出ると、 いつも私の少し前を、前へ前へと進んでいきました。

その小さな背中を追いかけながら、 私は何度も声をかけていました。

もっとゆっくりでいいよ。

ゆっくりいこう。

歩く姿を見て、 まるで生き急いでいるみたいだと感じることが、 何度もありました。

その頃は、いつもの散歩の中で何気なく言っていた言葉です。

けれど、umuは本当に、 あっという間に私の前からいなくなってしまいました。

あまりにも速くて、 私の心はなかなか追いつくことができませんでした。

それでもumuは、最後まで、 彼女なりの最大限の優しさを私に残してくれたのだと思っています。

病気と共生した、残酷なほど温かな時間

umuには、多中心型リンパ腫という病気が見つかりました。

私は、その時間を「闘病」と呼ぶことに、 少しだけ違和感があります。

病気に勝つためだけの時間だったのではなく、 umuが病気を抱えながら、最後までumuとして生きていた時間だったからです。

だから私は、 病気と共生していた時間 と考えています。

病気が分かってからの日々は、 不安と選択の連続でした。

今日は何を食べられるだろう。

苦しくはないだろうか。

この選択でよかったのだろうか。

もっと別の方法があるのではないか。

何をしていても、心のどこかに不安がありました。

怖くて、 苦しくて、 できることなら経験したくなかった時間です。

けれど同時に、 あの時間は、これまでの暮らしの中で最も濃密にumuを見つめた時間でもありました。

一番たくさん触れました。

一番たくさん抱きしめました。

一番たくさん名前を呼びました。

そして、一番たくさん、 「大好きだよ」 と伝えました。

明日が当たり前に来るとは限らないと知ったことで、 一緒にいられる一分一秒が、 それまでとはまったく違う重みを持つようになりました。

苦しいのに、温かい。

怖いのに、愛おしい。

終わってほしくないのに、 この苦しさから解放してあげたいとも願ってしまう。

相反する気持ちが、 いつも心の中にありました。

あの時間は、私にとって
残酷なほど温かな、最後の記憶です。

病気は、私たちが望んだものではありません。

それでもumuは、その時間を通して、 最後までたくさんの優しさを私に残してくれました。

私がこれからも生きていけるように、 抱えきれないほどたくさんの記憶を、 最後にもう一度、ぎゅっと詰め込んでくれたように感じています。

それでも、たくさんの後悔が残りました

濃密な時間を過ごせたからといって、 後悔がなかったわけではありません。

umuがいなくなったあと、 私の心の中には、たくさんの「もっと」が残りました。

なんでもっと早く、異変に気づいてあげられなかったのだろう。

もっと早く病院へ行っていたら、何か変わっていただろうか。

ほかにできることはなかっただろうか。

あの選択で、本当によかったのだろうか。

もっと食べさせてあげられたのではないか。

もっと抱きしめてあげられたのではないか。

もっと。

もっと。

もっと。

誰かに言葉にして話したわけではありません。

でも心の中では、何度も何度も考えていました。

過去に戻ることはできないと分かっているのに、 何度も同じ場面を思い返し、 別の答えを探そうとしていました。

ペットロスの中で、 「もっと何かできたのではないか」という後悔に苦しむ人は、 少なくないのだと思います。

愛していたからこそ、 もっと幸せにしたかった。

守りたかった。

できることを、すべてしてあげたかった。

だから別れたあとにも、 心は答えを探し続けてしまいます。

私も今なお、 「あれでよかった」とすべてを言い切ることはできません。

それでも少しずつ、 後悔だけではなく、 umuが私に残してくれたものにも目を向けられるようになっていきました。

悲しみは消えなかった。でも、少しずつ形が変わっていった

umuがいなくなった直後、 私には悲しみしか見えていませんでした。

家の中にumuの姿がないこと。

足音が聞こえないこと。

ごはんを用意する必要がないこと。

散歩へ行く理由がなくなったこと。

これまで当たり前だったことが、 一つひとつなくなっていきました。

けれど、時間が経つにつれて、 私の中に少しずつ別の感情も生まれてきました。

おやつを作れば、 「umuなら、これを好きだったかな」と思う。

散歩をすれば、 「ここを一緒に歩いたね」と思う。

季節が変われば、 あの頃のumuを思い出す。

写真を見れば、 苦しさだけではなく、 かわいかった仕草や、 一緒に笑った時間も思い出せるようになっていきました。

悲しみはなくなっていません。

会いたい気持ちも、 抱きしめたい気持ちも、 今も変わりません。

でも、悲しみだけだった記憶の中に、 少しずつ温かさが戻ってきました。

悲しみが消えたのではなく、悲しみの中に愛した記憶が戻ってきたのだと思います。

ペットロスは、何もできなくなることだけではありません

ペットロスというと、 涙が止まらず、何も手につかなくなる状態を想像する人もいるかもしれません。

けれど、悲しみ方は人によって違います。

ベッドから起き上がれなくなる人もいれば、 いつも以上に仕事をする人もいます。

人と会わなくなる人もいれば、 誰かと話し続けることで自分を保つ人もいます。

私の場合は、 手を止めることができませんでした。

おやつを作り、 文章を書き、 商品を考え、 届けるために動いていました。

動いていたから、悲しくなかったわけではありません。

元気だったから、仕事をしていたわけでもありません。

悲しかったからこそ、手を動かしていたのだと思います。

何かをしている間だけは、 崩れずにいられた。

手を動かすことが、 私なりの呼吸のようになっていました。

だから、愛犬を見送ったあとも動き続けている人を見て、 「もう立ち直ったのだろう」と決めつけることはできません。

表面ではいつも通りに見えても、 心の中では深い悲しみを抱えていることがあります。

反対に、何もできない時間が続いていても、 それは弱いからではありません。

どちらも、大切な存在を失った心が、 その人なりに今日を生き延びようとしている姿なのだと思います。

笑うことに、申し訳なさを感じる日もありました

愛犬を亡くしたあと、 楽しいことをしてはいけないように感じることがあります。

笑ったあとに、 「umuがいないのに、私は何を笑っているんだろう」 と思うこともありました。

新しいものを見て心が動いたときも、 誰かと楽しく話したときも、 ほんの少し後ろめたさがついてきました。

悲しみ続けることが、 愛していた証のように思えてしまうこともあります。

けれど、悲しいことと、笑うことは、 どちらか一つを選ぶものではありませんでした。

会いたいと思いながら、笑うこともできる。

涙を流した翌日に、 新しいことを始めることもできる。

umuを思いながら、 自分の人生を楽しむこともできる。

悲しみと喜びは、 きれいに入れ替わるものではありません。

同じ心の中に、 どちらも存在していいのだと思います。

「乗り越える」ではなく、「一緒に生きていく」

ペットロスについて調べると、 「乗り越え方」や「克服する方法」という言葉を目にすることがあります。

もちろん、その言葉に救われる人もいると思います。

けれど私は、 「乗り越える」という言葉に少し違和感がありました。

乗り越えるということは、 その場所を越えて、 後ろに置いていくことのように感じたからです。

私は、umuを置いて前へ進みたいわけではありません。

忘れたいわけでも、 思い出さなくなりたいわけでもありません。

これからも思い出しながら、 一緒に生きていきたい。

そう思っています。

ペットロスは、
愛した存在を過去へ置いていくことではなく、
その子を心の中に連れて、これからを生きていくこと
なのかもしれません。

umuが残してくれたもの

umuが旅立ったあと、 私の暮らしやものづくりの中には、 umuからつながったものがいくつも生まれました。

犬と暮らす空間で、 静かに心を整えるためのお香。

散歩を続けるための小さな物語、 イイコtoウォーク。

犬から届いたような言葉を、 形にした犬からのお手紙。

どれも、 umuがいなくなった悲しみだけから生まれたものではありません。

umuと暮らした時間。

umuが見せてくれた景色。

umuから受け取った優しさ。

そのすべてが形を変え、 今の私の中から生まれてきたものです。

だから私は、 「umuがいなくなったから生まれた」とは思いません。

umuがいたから、生まれたものです。

この違いは、 私にとってとても大きなものでした。

「いなくなったこと」に目を向けるだけではなく、 「いてくれたことで何が残ったのか」を見つめられるようになったからです。

umuが好きだった私でいたい

umuが好きだった私は、 きっと、泣いている私だけではありません。

笑っている私。

おやつを作っている私。

何かを思いついて、 すぐに動き始める私。

失敗しても、 また新しいことを考える私。

そういう私のそばに、 umuはずっといてくれました。

だから私は、 umuが好きだった私でいたいと思っています。

悲しい日には泣く。

でも、笑える日には笑う。

動ける日には動く。

新しいものをつくり、 新しい場所へも進んでいく。

それは、umuを忘れたからではありません。

私が笑っていることも、 私が動いていることも、 きっとumuは喜んでくれると信じているからです。

umuが好きだった私でいたい。

だから、私は笑います。

そして、動きます。

ペットロスに、正しい時間の流れはありません

愛犬を亡くした悲しみが、 いつまで続くのか不安になる人もいると思います。

一か月で少し落ち着く人もいれば、 一年経っても涙があふれる人もいます。

命日や誕生日、 季節の変わり目に、 急に悲しみが戻ってくることもあります。

それまで平気だった場所で、 突然、胸が苦しくなることもあります。

だから、 「もう何か月も経ったのに」 と自分を責めなくてもいいと思います。

悲しみには、 決められた期限も、 正しい順番もありません。

泣く日と笑う日を行き来しながら、 少しずつ自分なりの暮らしをつくっていく。

それでいいのだと思います。

ペットロスによる不眠や食欲不振、強い自責感などが長く続き、日常生活を送ることが難しい場合は、無理をせず、医療機関やカウンセラーなどの専門家へ相談してください。誰かの力を借りることも、自分を守るための大切な選択です。

今、ペットロスの中にいるあなたへ

今、愛犬を亡くしたばかりで、 何も考えられない人もいるかもしれません。

後悔ばかりが浮かび、 自分を責めている人もいるかもしれません。

周りはいつもの生活へ戻っているのに、 自分だけが取り残されたように感じている人もいるでしょう。

無理に元気にならなくても大丈夫です。

すぐに答えを見つけなくても大丈夫です。

何もできない日があっても、 涙が止まらない日があっても、 笑ってしまう日があっても大丈夫です。

その全部が、 愛した時間の続きなのだと思います。

いつか、 悲しみがなくなる日が来るとは、 私には言えません。

私自身、今もumuに会いたいです。

けれど、悲しみは消えなくても、 その子が自分の中に残してくれたものに気づく日が来るかもしれません。

優しさかもしれない。

新しい習慣かもしれない。

誰かを大切にする気持ちかもしれない。

あるいは、 これからの生き方そのものかもしれません。

悲しみは消えなくても、生き方は変わっていく

ペットロスとは、 愛犬との別れによって生じる、 深い悲しみや喪失感のことです。

その現れ方も、 続く時間も、 人によって違います。

私もumuを見送ったあと、 たくさん泣き、 たくさん後悔しました。

今も、悲しみがなくなったわけではありません。

けれど、その悲しみは少しずつ形を変えました。

umuと暮らした記憶は、 私がつくるものの中に残り、 誰かへ届けたいと思う気持ちの中に残り、 私がこれからを生きる力の中に残っています。

ペットロスを乗り越えなくてもいい。

忘れなくてもいい。

愛した時間を抱えたまま、 その子と一緒に、これからを歩いていけばいい。

私は、umuが好きだった私でいたい。

だから笑うし、動きます。

きっとumuが喜んでくれると、
私は信じているからです。

悲しみは消えなくても、生き方は変わっていく。

そして、その変化もまた、 愛した子が残してくれたものなのだと思います。

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